2014年3月7日金曜日

奈良の旅人エッセイ-35-「匂う」

「匂う」

 奈良には空気に匂いがある。
 近鉄奈良駅から地上への階段をあがるにつれ、視界には東の山並みが、そして鼻孔にはこの町独特の匂いが入ってくる。あぁまた奈良に来たんだなぁ、としみじみ感じる瞬間である。

  「ここは町方(まちかた)に融けている」と書かれたのは司馬遼太郎氏で、それは東大寺境内の西辺についてであった。転害門以外にさしたる結界のないさまを そう表現されたのだが、よく考えてみれば、奈良公園一帯はすべて「融けている」のではなかろうか。なにせ名所のほとんどが地つづきで、あいだを隔てる塀や 柵、門がほぼない。あっても役を果たしていない。どこもかしこもイケイケなのだ。東向商店街から数歩脇へそれるとそこはもう興福寺の境内で、目の前にはい きなり築数百年の伽藍が現れる。三条通はそのまま春日大社の参道へつづき、やがて春日山遊歩道となる。東大寺の南大門を二十四時間出入りできるのも、よそ 者からすると驚異である。
 ここでは、非日常と日常、自然と人間、旧と新、聖と俗……いろんなものが境なく融け合っているのだ。もっと言えば、車の走行を平然とさえぎり、人の面前で脱糞あそばす神鹿の存在など、その最たるものだろう。人間と動物のあわいさえも「融けている」。
 
 そんな奈良では、私のような旅人もおのずと「融けて」、身も心もオープンにならざるをえない。ヨロイやフンドシはどこへやら、温泉につかっているかのように心底くつろぐ。開放感にひたりつつ深々と息をつくと、身内に満ちてくるのが、この町独特の空気、匂いだ。
  枯芝の匂い。若草の匂い。樹木の匂い。日なたの匂い。土の匂い。鹿の体臭や糞臭。伽藍を支える木材の、檜や杉の匂い。古い建物にしみついた埃臭さや黴臭 さ。たちのぼる線香の薫煙。……いろんなものが融け合い渾然一体となった空気は、どんなハーブともアロマオイルともちがう、えも言われぬ匂いで、私を陶然 とさせるのである。
 一度、初夏の雨上がりに奈良入りしたおり、蒸散作用もあったのか、この「奈良の匂い」が猛烈に立ちのぼっているのに出くわしたことがある。夜更けて奈良倶楽部のベッドに入ったあとも、窓から空気が流れ込み、一晩中まるでアロマテラピー状態だった。
 書いているうちに、またぞろあの匂いが恋しくなってきた。常習性がつよいのかもしれない。私が奈良通いをやめられない所以である。

東京都在住 F.A.様 40代 男性