2014年2月8日土曜日

奈良の旅人エッセイ-8-「私のお気に入りの奈良」

「私のお気に入りの奈良」

 奈良を旅する場合、奈良県の観光案内に関する書物を事前に徹底的に調べ尽くして旅するのも一つのやり方だとは思うが、やはり旅の醍醐味は予断を入れず、自分の五感でその土地を味わうのがいいように私は考えています。ときには予想外の景色に出会えるのがよい。
 奈良を訪れる圧倒的多数の人は、近鉄奈良駅から若草山を東に見ながら通る広幅の東西に延びるバス道路を歩きますが、私のお薦めの道は、この広幅のバス道とほぼ平行に走る北側の細道で、多少曲折があるが東大寺の裏側を通り二月堂に至る細道です。季節は晩秋がよい。あたりは黄色、橙色、赤色のさまざまの紅葉を見て、落ち葉を踏みながら歩く中に至る所に奈良の鹿に出会うことができます。奈良の鹿は奈良の風景に溶け込んでいる。二月堂から更に若草山の麓を経て春日大社、飛火野、浮身堂、猿沢池、近鉄奈良駅に至るコースである。この裏道を歩くのがミソである。
今から十数年前のこと、奈良を歩いて感動的な情景にであったことがあります。晩秋ではないが、暑い夏のある日の早朝でした。戒壇堂裏と正倉院との間に全く整備されていない沼の中に立派な角をもった親鹿が朝靄の中で水浴びをしている場に出くわして、私は一瞬立ち止まって、その情景に見入ってしまいました。もちろん鹿の方は私には見向きもしません。予想もしない情景に私は感動しました。普段は他の人々がいる中で数多くの鹿を見ることが多いのですが、この時ばかりは、辺りに誰もいない中での出来事でした。奈良の鹿は普段は雑多な観光客に近寄って食べ物をねだることが多いが、私が出会ったこの情景は、人もいないし他に鹿もいないところで、立派な角をはやした大鹿の足が全部沼に埋没するくらい深いところまで水に入っている情景でした。その分感動がおおきかったのかもしれません。そこで、かの大鹿は自分だけゆっくりしたところで水浴びをしていたのです。この経験は十数年前のことですがその日のことを今も鮮明に覚えています。
いつも奈良を散策した後 は、私の愛読書の一つに「大和文学巡礼」(昭和19年天理時報社発行のもの)の中で自分の歩いたその場所辺りをこの本の中で探すのであるが、朝靄の中で沼で鹿が水浴びするといったことは、この本は勿論、他のどの本を覗いても、そんな記述などあろう筈もない。このような幻想的な場面に出くわせば、詩人、俳人、随筆家はどういうふうに表現するのだろうかと考えるだけでも楽しい。

奈良県在住 N.M.様 70代 男性